第33回

 現在の我々は適当に物語を消費している、とした時の「適当」とは何を意味するだろう。
 「適当」であることを決めたのはその者だ。彼は自分達のことを自ら定義する事で、その定義に当てはまる者は「自分と同じように」適当に物語を消費していると決めつけている。
 その決めつけはその者だけの台詞ではただの意見だが、その者が定義した集団の代名詞だと思われているような人物である場合には、それが集団に対しての啓蒙として働いてしまう。

 大人たちは今の時代を、自分の時と比べて活気がない、小粒だと言う。それはまさに今、個人としての自由を謳歌できる我々に、彼らが青春を賭けた集団への意識が欠如しているからなのではないか。
 彼らの考えは、その脳裏にこびりついた学生運動の熱狂によるものであり、親が知らず知らずに教えてしまった国家主義の名残である。集団のことを考える彼らは、子供たちもまた彼らと同じ価値観で行動することを求め、強制する。そして社会的な視点で見れない夢追い人を、精神的に幼いとして切り捨てる。
 だから私は、大人の仲間入りをすることを信じられない。私はまだ大人と戦っていたいのだ。

 ゲームと、マンガを、アニメをサブカルチャーとしてとらえ、文化的な側面から考える者達は、老害の意見に染まって大人になってしまった者達だ。彼らは子供ではない。彼らの子供の心は忘れる程度のものでしかない。
 私は彼らを楽にしてあげなければいけない。子供が無邪気に老人へ体力の限界を示すよう、大人達には退場の鐘を鳴らしてあげなければならない。私は鐘を作りたいのだ。