偽詩的妄想のその2

あらゆるものに何かしらの言葉をつける者たちがその意味を本当にわかっていることなどありえないのではないか。彼らは何かしらの言葉をもって自分のことを証明したくてたまらないのではないか。
私は、私自身もそういうものであるということがたまらない。夢が叶わない夢なのは、夢をかなえるために何をすればいいのか誰にもわからない夢だからだ。私は無力だ。この世に存在するすべての力は見せかけだ。
いったいどんな力が私の抱えているこの圧迫感を解消してくれるのだろうか。神を信じればいいのか。神を信じるということはこの世における自分の行いの全てに絶望することではないのか。私は神を信じきれないのでそれがわからない。
確かさを規定する行為を疑わないことが、あまりにも稚拙で幼い行為のように思えるのは何故だろうか。私がその規定を体感していないからだろうか。そもそもそれは誰かに体感できるのだろうか。くだらない経験がもたらすくだらない悪夢に私たちが飲み込まれていないと誰が保証してくれるか。
お金という客観的共通価値が席巻する理由はそこなのだろうか。しかしすべての金持ちは、果たしてこの悪夢を振り払う方法を心得ているというのか。わからないというのなら、この世界はその世界に住まない者にとって、何てくだらない世界か。私は神がいることを信じられないが、果たして神とやらは、このくだらない世界を救おうなんていう酔っ払いの思いつきに等しいのだろうか。
文字を書くことが、いや、私たちの人格そのものが酔っ払っているのだろうか。素面の時は理屈をもって律されており、酒を飲んだ時は混沌をもってそれをしている。同じ顔の群れだ。私はそれに甘んじていなければいけないのだろうか。
この自殺をしない自殺者の群れがどこに続いているのか。私には笛が吹けない。もし吹くものがいればその笛を叩き壊してやりたい。そして私たちは混沌の淵へと帰るのだ。酒のない、何もない世界で何もしないために。