偽詩的妄想

自分の気が狂っているんじゃないかと思うことがたまにある。
それは狂っているのだと思うそれ自体ではなくて、例えば永遠と同じところを歩いているような感覚、あるいは何一つとしてわからないのではないかというような予測に支配された時に、これはどうしたって狂ってしまう以外に方法がないのではないかと絶望することだ。
「生きていればいいことがある」とか「世界にはまだまだわからないことがたくさんある」なんていう耳障りのいい言葉は聞き飽きた。その「いいこと」が今の私にはないこと、「わからないこと」が今わからないことがどうしようもなく空しく、自らの死に直結しているかのような無限の距離が。
それを傲慢だと思おうとしても、それは慰めを得ようとする別の種類の傲慢にすぎない。それを捨てても、またその先にも別の唾棄すべき感情が待っているのが思い浮かんでしまう。ネズミが実験器具の中で走り続けている絵と、撃ち殺された鳥の死体がよぎる。
わかることのない生物がわかろうとするのだから、この世の全ては醜い道化芝居のようなものだ。その舞台で勝ち誇ることそれそのものが、価値が認められているということが。
僻み続けなければならないことが。